とくみつのひきこもり相談ブログ

7年3ヶ月ひきこもり無職の後、働き始めました。
ひきこもり無職の間、怖い経験をしました。
このブログは自分と同じ目に遭ってほしくないという思いで立ち上げました。

怒らない人は存在する

怒ることは良くないと分かっていても怒りたくなる人は多いと思います。
普段から怒っている人が陥りがちな思考の檻が有ります。
怒らずに済むのはありえない。心の中では怒っているだろうと。
怒らない人が居るはず無いという思考の檻です。


この檻は天皇陛下がいらっしゃるという点で突破できます。
天皇陛下は公の場で負の表現を一切行ってはならないという
想像を絶する制約の中を生きておられます。
この状態で心の中で負の感情を使ったら心と体の大きな不一致が起き、
すぐに体が壊れてしまいます。
心も負の表現を行わないようにした方が楽になるのです。


怒らなくなるには怒りのデメリットを認識することです。
心臓の寿命を縮める、周りからの心象が悪くなる、判断力が低下する、
判断力が低下するから怪我や失敗をする確率が高くなる。


少し怒るぐらいなら良いだろうと思われる方もいるかもしれません。
憤死という言葉があるように怒りが度を越すと死につながります。
少し怒ると少し寿命が縮むのです。


怒らなくなるのは難しいです。
私も怒らないと決意してから怒らなくなるのに半年かかりました。
怒らなくなってからさらに半年経って
ようやく怒らないメリットを全身で理解できるようになりました。


怒りの思考が湧かないのかという疑問が出て来ると思いますが
ごくまれに怒りの思考も湧いてきます。
怒らなくなるというのは怒りの思考が怒りの感情につながらなくなるということです。
怒りの思考が湧いても感情の方で怒りを防ぐことができるのです。
想像しづらいと思いますが思考と感情を切り離すことができている状態です。
思考と感情を切り離すには思考を客観的に観察することです。


思考を客観視し怒りのデメリットを認識すれば
ちょっとした怒りは消すことができるようになります。


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思考の檻を突破する

思考の檻に囚われる人は自分の持っている常識を疑わない人です。
自分の常識はもしかしたら間違っているかもしれない、
そう思うことが思考の檻を突破する第一歩です。


檻を突破することはそれほど難しいことではありません。
思考の檻は檻の外に想像が及ばない状態なので
思考の檻の概念を持てれば半分突破できたようなものです。


一つ例を示すと温度の概念があります。
この世の最低温度は摂氏マイナス273.15度というのがこれまでの常識でした。
しかし絶対零度を超え負の温度を作り出せたことによってこの常識が覆りました。
この世の最低温度は絶対零度ではないと認識するだけで
温度に対する思考の檻を突破できるのです。


科学の知識を集めることは思考の檻の外に出る訓練になります。
物理現象について新しい事実を知った時
すぐに自分の知識を書き換えることができれば
思考の檻に囚われることも少なくなります。


今の時点ではまだ分からない物理現象が多くあります。
100年後の人達から見れば私も思考の檻の内側にいる人間です。
もっと踏み込むと人間のスケールでは永遠に辿り着けない物理現象もあります。


辿り着けない物理現象については原理は分からないけど
それはそういうものだと割り切るしかありません。
未来の科学や永遠に解明できない物理現象など想像が及ばないことは多くあります。
その想像が及ばないものがあると認識できる人が気付ける人になれるのです。


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迷いながら考える

私はいつも考えすぎて表現に迷いを生んでいます。
道の理解が中途半端だからなのですが迷う理由があります。


道を理解すると他の人にも知ってほしいという欲が出てきます。
同時に理解してもらえない、道の理解は難しすぎるという考えが出てきます。
人に忠告をした時、理解されないばかりか自分を否定されたと思われる恐れもあります。
極端な例だと紛争地で平和の尊さを説いても銃で撃たれて終わりになるようなものです。


では忠告しなくても良いのかという問題が出てきます。
人の道を外れると不幸になる確率が上がります。
忠告しないのはその人を見捨てるようなものです。


仕事をしていると忠告したい、人の道を伝えたいとよく思います。
しかし失敗すれば悪い流れになってしまうので普段は何も言いません。
言えれば一番良いのですが言えないなら他の手段を考えるしかありません。


私は言わない代わりに仕事をする態度で人の道を示し続けています。
報連相と確認の徹底、入社した直後は挨拶すら無かったので
小さい声でも無理に挨拶をしていました。
普段はYシャツスラックスを着るという規定ですが
私は会社が休みの日に出勤するシフトでその日は私服を着ても良いことになっています。
しかし私はその日でもきっちり身だしなみを整えて仕事をしています。


そういった行動を続けた結果、今では挨拶も少しできるような職場になりました。
最近は怒りをぶつけ合うことも少なくなりました。


私は自分の考えが正しいとは思っていません。
絶対に正しいと思う方が危険だからです。
それでも少しでも良い方へと考え続けています。


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科学との調和

この記事はPL会員向けの記事です。


科学が発達している現代でなぜ新興宗教が生まれ信じる人がいるのか
神に頼らない人達は少なからず疑問を抱くと思います。


PLや他の新興宗教の基本的な考え方は階段を例に挙げるとこうなります。
階段で手すりを使えば転落する確率が下がります、
だから手すりを使った方が良いですよ、という教えになります。


ここで留意しなければならないのは
手すりを使っても転落する確率は決してゼロにはならないことです。
手すりを使っているから転落することはありえないと思うと
それが慢心となり逆に転落する確率は上がっていきます。


これが自然の摂理なのですがこれに納得できないと
なぜ宗教があるのかについても理解が難しくなります。


手すりを使っても転落する人は世の中にはいます。
それを例にこの教えは間違っていると言われても
宝くじで一等を当てた人を例にするようなものなので
確率はゼロにはなりませんからとしか言えなくなってしまうのです。
それで宗教家と神に頼らない人との間に溝が生まれてくるのです。


じゃあ階段で手すりを使うのは間違いなのかと言うとそんなことはなく
手すりを使えば使わない時よりも転落する確率は下がります。


階段に限らず心の使い方でトラブルや事故に遭う確率は変わっていきます。
怒りを周囲にぶつけ続けると怒りが跳ね返ってくる確率が上がります。
体調が悪いのに無理をすると怪我や失敗をする確率が上がります。


新興宗教は宇宙や確率の概念を持ちそれを教義に盛り込んでいます。
伝統宗教は科学との調和に苦労されています。
それもそのはずで伝統宗教は誕生した時の科学水準に合わせているために
今の科学に合わない教義が有り科学との調和を進めようとするとその教義を否定せざるを得ず、
それを受け入れることは信仰心によって難しくなっているからです。


新興宗教が生まれるのは伝統宗教が科学との調和を進めていないからです。
伝統宗教が本気で科学との調和を進めれば新興宗教は太刀打ちできないのですから
現代科学に沿わない教えを改める勇気を持っていただきたいです。


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働く時に考えていること

私は元ひきこもりであることを逆に武器にして働いています。


死んだはずの人間が働いて税金を納めているようなものなので
世界にとってプラスにしかならないからです。
辞めてもプラスがゼロになるだけなのでこれも問題無いです。
いつ辞めても良いと思いながら働いているので気楽にやっています。


九死に一生を得たことも武器にしています。


理不尽に怒りをぶつけられることもあり
その時はちょっときついなあと思いますが、
後でこの人は私を認識しているんだなあとも思い
生きているからこそこういうことが起こるし経験できると
不満を溜めず引きずらずに過ごしています。


私は生きるために生きています。
死に対する恐怖はもちろんありますが気付く前よりは和らぎました。
死を経験できるのは一度だけなのでなるべく後回しにしようとしています。


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