さあ神奈川にトンボ帰りだ。
広島駅までちゃんと路面電車を使う。これなら幻聴さんも文句はあるまい。
路面電車に乗っている間、今までのことを振り返ってみた。
予測が正しければもう問題は無いはず。
しかし広島駅に着くと急に男が悲鳴を上げた。
(うわあああ!)
なんだ? 何が起きた?
(全部お前のせいだ! ニート殺す!)
なんで?
幻聴さんが今までとは違うパターンで喋り始めた。
「ごめんねって言って」
これは幻聴さんの仕業か。何をやったんだ。
(ニート殺す! 殺す!)
男が尋常ではないほど発狂している。
また例によって子供の声が聞こえなくなった。
「ごめんねって言って」
言いたくない……。でも言わないと真実にたどり着けないかもしれない。
「ごめんね」と言った。
(ゴメンネ)(ゴメンネ)(ゴメンネ)
なんか増えた。
(お前が来てからおかしくなったんだ絶対に許さねえ!)
待ってくれ。これは幻聴さんの仕業なんだ。
(殺す!)
聞く耳を持ってくれない。
「このまま会って大丈夫?」
幻聴さんがまた悪意を振りまき始めた。
大丈夫だ。路面電車に乗っている間さんざん考えただろ。恐れることは無い。
(殺す! 絶対に殺す!)
大丈夫だ。新幹線の切符を買った。
でも不安が押し寄せてくる。幻聴さんは僕より常に一枚上手だ。
幻聴さんはあの時騙したと言ったがそれ自体がフェイクだったとしたら?
ヤクザは本当にいるのかもしれない。
殺されるかもしれないという恐怖が甦った。
「どうする? 今ならまだ間に合うよ。親の所へ逃げられるよ」
落ち着け。今までのことを思い出せ。
子供の姿を見たか? 見てない。男の姿を見たか? 見てない。
管理人も虐待の話を聞いたことが無いと言った。
周りの人が口々にニートと言ったのは? あれは僕の頭が勝手にそうすり替えたんだ。
あの聞き取れなかったアナウンスで説明できる。
アナウンスで流れるメッセージは決まってる。
その常識があったからすり替えきれずに意味不明な文章になってしまったんだ。
幻聴は全部自分の頭が聞かせていたんだ。ヤクザはいない!
新幹線に乗った。
「なんで……」
幻聴さんの声に余裕が無くなった。
新幹線が発車する時にはもう答えが出ていた。
(ようやく気付いたか)
男が急に落ち着いた声で喋り始めた。
(離れているのに声が聞こえるのはおかしいだろ? ありえないだろ?
おかしいのは、とくみつの頭だったんだよ)
そう。おかしいのは僕の頭だ。実際そう認めるのは少し怖かった。
認めた瞬間に発狂してしまうかもしれないという恐怖があったから。
でも大丈夫だ。認めても狂うことは無かった。もう幻聴は怖くない。
男は僕の頭が作り出した幻想だったんだ。もう男の声は怖くない!
「こんなはずじゃ……」
幻聴さんが明らかに動揺した。
子供も僕の頭が作り出した幻だ!
「やめろ! せっかくここまで来たのに全部無駄になってしまう!」
無駄ってなんだ。
「聞こえてるって言って!」
もうその手に乗るか。
幻聴さんも僕の頭が作り出した幻の存在なんだ!
「やめろ!」
頭の中が静かになった。
男の声は聞こえなくなった。子供の声も聞こえなくなった。
幻聴さんは……落ち込んでいた。
「なんなんだよお前……」
幻聴さんの声も消えると思ったが声が小さくなっただけだった。
でも幻聴さんは落ち込んでいた。イメージで言うと体育座りで突っ伏しているような感じだ。それぐらい声に力が無かった。
「なんなんだよ。お前もうニートじゃねえよ。こっちがニートだよ……」
僕が無職なのは紛れも無い事実なんだが。
しかしこれは幻聴さんとの駆け引きに勝てたのか?
「引き分けだよ……」
引き分け? でも口論では全く歯が立たなかった幻聴さん相手に引き分けに持ち込めたということは僕にとっては勝利も同然なんじゃないか?
僕は助かるかもしれないのか?
「もう助かるよ。お前に脳腫瘍なんてねーよ」
本当に? いや幻聴さんがまた騙そうとしている可能性がある。この落ち込みも演技かもしれない。油断はしない。
「演技じゃねーよ……」
演技だと思っていたが結局新幹線に乗っている間は幻聴さんはずっと落ち込んでいた。
その後も小田急線に乗っている時もマンションに帰り着いた時も落ち込んでいた。
マンションに入る時ヤクザがいないと分かってはいてもやっぱり怖かった。
ヤクザはいない。ヤクザはいない。そうつぶやきながら自分の部屋に入った。
帰宅できたことを母さんに電話した。
「保険証持って明日ちゃんと病院に行きなさいよ」
「うん……」
明日病院に行ってCTスキャンし脳に物理的に異常が無いことを確認する。
問題無いと認識できれば幻聴は全て消えるはず。そう考えていた。
電話を切り少しくつろいでいると落ち込んでいた幻聴さんが急に大声を上げた。
「病院へ行け! 今すぐ行け!」
ええ? 今すぐ? 夜の8時超えてるんだけど。明日じゃ駄目?
「駄目だ! 今すぐ行け!」
幻聴さんがこうまで強く言うのだから一刻の猶予は無いのかもしれない。
疲れていたが病院に行くことにした。
タクシーを呼ぼうとしたが自宅からでは電話がつながらなかった。
駅まで行ってバスでも使うか。保険証を持ってマンションを出た。
駅に着いたのはいいがどの路線バスを使えばいいか分からない。
「いいからタクシーで行け!」
駅前のタクシーを使って救急病院に行った。
受付に行き当直の医師から簡単な問診を受けた。
「ちょっと脳腫瘍の可能性は考えられませんね」
「CTスキャンを受けたいのですが」
「ちゃんとした検査を受けたいなら○○病院へ行ってください」
脳腫瘍の可能性が低いなら明日でもいいか。
救急病院を出たが帰りの足を考えていなかった。またタクシーを呼ぶか?
いや、ここからならなんとなく道は分かる。歩いて帰ろうとした。
「学習能力が無いの? また迷ったらどうするの?」
ここは地元だしこの道も知っている。だからちょっと遠いけど大丈夫。
しかしまた迷ってしまった。
この建物もこの建物も知っている。なのに帰る道が分からない。
理由は言うまでも無い。幻聴だ。幻聴のために脳に負荷がかかりすぎて頭の地図が使えなくなっているんだ。
広島のように土地勘の無い場所で迷うのは仕方無い。でも夜とはいえ見知った建物、知っているはずの道で迷う。こんな理不尽なことがあるか。
足が痛い。幻聴さんが咎め始める。
「昨日から合わせてどんだけ歩いた?」
少なくとも4時間。15kmは歩いた。
「ひきこもりにはちょっとつらい距離だよなあ。だから馬鹿だと言ったんだ。
駅員に聞いたり人に尋ねたりしていればこんなことにはならなかった。
親と教会に行った時もそうだ。親に路面電車を使いたいと言ってれば良かった」
幻聴さんはこうなると容赦が無い。
「もう一度聞くよ。なぜ駅員に聞かなかった?
なぜ人に尋ねなかった? なぜ親に言わなかった? 答えろ」
それは……昨日110番したからだ。勘違いしていたとはいえ結果的にいたずら電話になってしまった。それが負い目になって人に頼ろうとする選択がしづらくなってしまったんだ。あの110番通報がここまで足枷になるとは思わなかった。
あまりにも情けなくなって涙が出てきた。
「何泣いてんだよ。全て自分がやった行動の結果だろ。
今のお前に泣く資格なんかねーよ」
分かってる。でも涙が止められない。
やっぱり幻聴さんが言った通りこの先もずっと同じ目に遭い続けるだけなのかもしれない。なら生きていく意味なんてあるのか? それでも……。
死にたくない。死にたくない……。
「泣いたって誰も助けてくれないよ」
一旦マンションに帰り着くことができたのにそのマンションが遠い。
このまま帰ることもできず明るくなるまで待つしか無いのか。
足が止まった。
「帰りたくないの?」
帰りたいよ。でも道が分からない。涙も止まらない。
必死に耐えてきたが肉体の限界も近くなって心が折れそうになった。
いや、もう折れていたのかもしれない。しばらく立ち止まったまま泣いていた。
(こっちだ)
声が聞こえてきた。幻聴さんではない。男や子供の声でもない。今まで聞いてきた声とは全く別の声だった。
この声はどこかで聞いたことがある。何も考えずその声に従った。
(そこをまっすぐ)
言われた通りに歩いた。
(そこを左。あとは分かるね)
マンションまで間違えようの無い道に出た。帰れる。帰れるんだ。
まさか幻聴に助けられるとは思わなかった。
そこから帰り着くまで幻聴の類は一切聞こえなかった。
幻聴さんも一言も喋らなかった。
ようやくマンションに帰ることができた。やっと休める。
上着を脱ぐと倒れこむように布団に入った。
つづく
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