とくみつのひきこもり相談ブログ

7年3ヶ月ひきこもり無職の後、働き始めました。
ひきこもり無職の間、怖い経験をしました。
このブログは自分と同じ目に遭ってほしくないという思いで立ち上げました。

忠告はありがたい

科学が進歩するたびに過去の常識が覆されていきます。
持っている知識を更新しないと時代に取り残されやすくなります。
持っている知識を全て正しいと思い込み
それが間違っていると気付けないとそれがトラブルの原因となります。


自分の持っている知識が間違っている、でも自分では気付くことができない。
この状態に陥った時にどうやって間違っていることに気付けるのでしょうか。
自分で気付けないなら人の忠告に耳を傾けるしかありません。
だから忠告はとてもありがたいことで
忠告をしてくれる人は自分の成長に欠かせない存在だと分かります。


しかし世の中には思考の檻に囚われ人の忠告に耳を貸さない人が大勢います。
一度も叱られたことが無い人は危険です。
叱られるとは人の道から外れたことを指摘され
それを認めお詫びし反省することです。


叱られても反省しなければ叱られたことになりません。
反省をして初めて叱られたことが成立するのです。
叱られたことが無い人は反省もできないので誰も忠告してくれなくなります。


そして間違った知識を持ち続け
人生の終わりに最大級の苦痛を味わうことになるのです。


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人工甘味料の危険性

まず始めに人工甘味料そのものには害はほぼ無いと記しておきます。


人工甘味料は砂糖に比べカロリーが無く砂糖の数百倍の甘味を持つもので
そのため輸送コストが安くなり低カロリーを謳った甘味物によく添加されています。


何が問題になるのかという話ですが甘みは糖分を感じるもので
甘い物を食べると素早くカロリーを補給できると体は思います。


しかし人工甘味料入りの食品はカロリーが低いので体が困惑してしまうのです。
体を騙すようなもので極端な話、体に喧嘩を売るようなものなのです。
だから人工甘味料を摂取した時に気持ち悪くなるという人は正常なのです。


人工甘味料を摂取し続けると甘みに対して鈍感になり
かえって食べ過ぎるようになってしまいます。
甘味はそれ相応のカロリーが有ってこそ甘味なのです。


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改善できない企業

ネットで犯罪行為を自慢するいわゆるバイトテロと呼ばれる残念な行動が
ネットの普及と共に目立つようになりました。
再発防止と教育に力を入れると企業は言いますが
根本的な問題に気付いていないからいつまで経っても無くならないのです。


それは教育する人間も道徳を理解していないことです。
道徳を理解している人が減っているから
教育したつもりでも教育できていないのです。


使える人材が欲しければ給料を上げれば良いだけです。
しかし業績の関係で給料を上げることができない、
だから社員には我慢してもらうしかない。
ここで思考停止している人が多いのです。


道徳を理解するとまず職場環境を良くすることに注力するようになります。
働きやすい職場なら多少給料が少なくても人材は残りやすくなります。
自分も職場環境の一つであると気付けば
道徳を理解するだけで給料が同じでも人材の質は変わり改善も進みます。


しかし企業は改善を嫌います。
コストがかかるからです。
そして上司という思考の檻に囚われています。
自分提案で改善するのは良いが平社員の改善提案は飲みたくない、
そういう上司が多すぎるのです。


平社員の提案を飲むということは
今までの自分のやり方を否定されるようなもので
それは上司という自分のプライドが許さないのです。
だから改善の必要性が分かっていても改善できないのです。
改善するとしても自分が定年退職した後にしてくれと。


その結果時代の変化に付いていけず取り残されているのに
古いやり方にこだわり気付いた時には手遅れになっているのです。
その企業の未来の多くは倒産するかブラック企業になります。
改善できない企業はブラック企業予備軍なのです。


道徳の勉強はそれほどコストはかかりません。
想像力が豊かであればあるほどそのコストは安くなります。
ハインリッヒの法則を理解すれば道徳は半分身に付いたようなものです。
ハインリッヒの法則と道徳を理解できれば次の時代でも上手くやっていけます。


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自我無き一切が師である

この記事はPL会員向けの記事です。
「自我無きところに汝がある」に折り畳まれている教えです。


自我無きものは自分の体や名前、自我を除いた世界の全てです。
自分の名前から教えられることは
その名前は自分の体に付けられているということです。
生まれた直後には自我が無いからです。
その後に自我も加わって自己となります。
このことから哲学的ゾンビを自分に見出しました。


哲学的ゾンビとは自分の意識は自分しか認識できないので
全ての他人は心が無いとしても成り立ってしまうというものです。
自分の痛みを感じるのは自分しかいない、
他人の痛みを自分は感じないから関係無いという犯罪者が陥りやすい思考です。


なぜ人を殺してはいけないのか。
それは殺人を犯した瞬間に自分の心が無くなってしまうからです。
いくら自分が痛みを感じ心を持っていても
多くの人から心が無い人間だと認定されてしまうのです。
これが哲学的ゾンビです。


自分の苦しみを誰も分かってくれないと癇癪を起こす人がいますが
その前に相手の苦しみを理解しようとしたことが有るのかと問いたいです。


私は名前をからかわれたことが有ります。
喫煙者の煙草でやけどしたことが有ります。
人に殴られたこともカツアゲされたことも有ります。
遅刻していないのに遅刻扱いされそれが原因で会社を辞めひきこもりました。
兄が亡くなり統合失調症になって死にかけました。
今は心臓がいつ止まってもおかしくない状態です。


しかし私は自分が不幸だと思っていません。
それらがあって道徳を理解することができたからです。
今までの全ての経験が教えてくれたのです。
自我を除いた全てがヒントで教材だったと気付きました。
自我無き一切が師である、一切に学べ、と気付かせてくれました。


どんなことからも学ぼうと思えば学べます。
気付き続けると思考の檻を突破できるようになります。
思考の檻を突破すると気付く前からは想像できないほど視野が広がります。


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道に沿う人

道を知っている人はどのようなものなのか少し記します。
道とは宇宙の全て、物理法則の全て、
宇宙が誕生してから今まで続いている流れの全て、
その他もろもろを総称しています。
捉え所が無く確実に存在している摂理、これが道です。


道を知っている人は一見善人に見えますがそうではありません。
もちろん悪人でもありません。


道を知っている人は水のようなものです。
水は多くの命を育みますがそれを誇ることはしません。
時に雲となり雨として降り水溜りのように濁っても本質を失いません。
水の王である海は一番低い所に在ります。


人の作った法律には限界があります。
しかし道には限界はありません。
法律は権力による拘束です。
法で縛ろうとすると必ずその法の穴を突こうとする人が現れます。
タックスヘイブンが良い例です。


道を知っている人は警察が無くても犯罪を犯しませんし
口約束を破ることもしません。
誰とも争わないので誰にも勝てませんが決して誰にも負けません。


道に沿う人を利用する人は
上手く使っているつもりでしょうが全くの逆です。
道を学ばないのなら道の人は自然に消えていくだけです。


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