とくみつのひきこもり相談ブログ

7年3ヶ月ひきこもり無職の後、働き始めました。
ひきこもり無職の間、怖い経験をしました。
このブログは自分と同じ目に遭ってほしくないという思いで立ち上げました。

PL処世訓継の変更

この記事はPL会員向けの記事です。
作った後も色々気付いたことがあるのでそれに合わせて変更します。


変更点
自己は全の表現である → 自己は摂理の表現である
一切を全に依る → 一切を摂理に依る
鏡は全を映す → 道を表現する鏡となる
停滞は後退である → 一切は転化する
末端を把握する → クオリアを把握する
常に白紙の心で臨む → 常に相対の岐路に立つ
自分勝手に生きず、創意工夫できる自由に生きる →
思考の檻の外に真の自由が在る


継処世訓はいつでも好きな時に変えられるのが強みです。
間違っていようと何をしようと上に原処世訓があるので気楽に変えられます。


私の座右の銘は「常に善悪の岐路に立つ」です。
なぜ上位処世訓である「人生は芸術である」では無いのかと言うと
この処世訓は幼いころ最初に疑問を抱いた処世訓であり、
命を救ってくれた処世訓であり、一番最初に理解できた処世訓だからです。
私にとっては「人生は芸術である」と同等なのです。


私はPL処世訓に洗脳されています。
洗脳されている自覚を持ち積極的に洗脳されに行ってます。
負の表現に洗脳されるよりマシだからです。


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人と人を除く動物との絶対的な違いはクオリアを認識できるかどうかです。
犬や猫にも心や感情は有りますがクオリアは認識できません。
ペットは餌をくれる飼い主に感謝できても食材そのものに感謝することはありません。
人を除く動物は人に人と動物との違いを教えるために存在しているようなものです。


科学を勉強して宇宙や世界の構造を知ると
人知を超えたある種の畏怖を感じるようになります。
それはこの宇宙は人間にとってあまりにも都合良く出来すぎているということ。


人間にとって都合良くできているから人は物を作ることができ
宇宙空間にも行こうと思えば行けるようになりました。
もしたった一つでも人間にとって不都合な物理法則が在ったなら
物を作ることができないばかりか人類は誕生することすらできません。


このことからこの宇宙に有るあらゆるものは
全て人間のために存在していると言っても過言では無いのです。


こう記すとそれは傲慢で偉そうな心で道に沿っていないと思われるかもしれません。
しかし人間は創意工夫する力を持っている、
それ自体が宇宙の流れ、自然の摂理そのものという事実が有ります。
創意工夫できることそのものが人間にとって都合良すぎるのです。


だから命を粗末に扱わないこと、自然に接し感謝すること、
自然の摂理に身を委ねることで気付きとひらめきを得られるようになっているのです。


生きる意味を考えられるのは人間だけです。
それは生きる意味を見出すことができるのも人間だけということです。


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気付くために

ブッダは自分が細胞の塊であることは知らなかったはずです。
だから現代人は科学の面においてブッダより真理に近い位置に居ます。
本来ならもっと気付ける人は増えるはずなのですが
現代は気付きを妨げるものが多く有るために
気付けるはずなのに気付け無いまま一生を終える人が多いのです。


気付きを妨げるものは
ゴシップ記事やワイドショー、まとめサイトなどを見ることです。
それからネットでよくある炎上に参加することです。
いずれも気付きを放棄する行動なので控えた方が良いです。


全く見るなという話ではありません。
気付くためには世俗の荒事には関わらないことが大前提なのです。


生きていると多くの迷いに見舞われますが
それは絶対的な真理を得ていないから迷うのです。


これだけは何人たりとも否定できないことが在ります。
それは宇宙が存在していること、
諸行無常の原理で世の中は動いているということです。
諸行無常だからこそ新しいものが生まれ続けるのです。


人はいつ老いるのか。
それは新しいことに関心を示さなくなった時、
新しいことが理解できなくなった時です。
そうなった時に命が尽きる速度が上がるのです。


いつかは必ず尽きる命ですが新しいことに触れ続けていれば
それだけ実りのある人生を送れるようになります。


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捨てて勝つ

この記事はPL会員向けの記事です。


二代さまは捨てて勝てとおっしゃいました。
勝ち負けにこだわらないことが宗教家であるはずなのにです。


年収を例に挙げます。
年収が600万だった人が何かの転機で200万まで落ちた場合、
600万だった頃の感覚が抜けずにストレスとなります。
しかし年収が0だった人が年収200万になった場合、
収入が無いよりマシだと思えるようになります。
同じ200万なのにストレスの溜まり方が違うのです。


もう一つ例を挙げます。
何か人にやってもらいたい事がある時
期待値を100%にして実際には70%だった場合
期待を裏切られたと思いストレスが溜まります。
しかし期待値を50%にして70%だったならば
期待以上にやってもらったと感謝できます。


期待しすぎる人ほど裏切られたと感じやすくストレスも溜まります。
あまり期待しない方が穏やかに過ごせるのです。


捨てるというのは自己表現を妨げるものを捨てるということです。
固定観念や期待しすぎること、過去に囚われることや負の感情を使うことです。


特に負の感情を使うことは自由に生きることに対して最大の障害となります。
負の感情を使うと視野が狭くなり短絡的な行動しかできなくなります。
それは負の感情に操られる人形のようなものです。
自分が自由意志を持った人間で在りたいなら負の感情は使わないことです。


負の感情という強固な思考の檻の外に出られたら
操り人形から解放された実感が得られ、真の自由を手にすることができます。
それが二代さまが示された勝つということなのです。
この世は気付いた者勝ちなのです。


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感謝できない人

世の中には感謝できない人や反省できない人がいます。
感謝できないことはかなり危険な状態です。


感謝できない人は感謝のクオリアを持っていない可能性があるからです。
感謝のクオリアを持っていないから
いくら感謝の意義を説明しても理解できないのです。


感謝のクオリアを持っていない人は感謝できないのかと言うとそんなことは無く
クオリアを持っていなくても感謝できる人はいます。
それはハインリッヒの法則などの知識を持ち合理的な考え方ができる人です。
合理的な考え方ができるなら感謝のクオリアが無くても感謝できるのです。


感謝できない人は感謝のクオリアを持っていない上に
合理的な考え方もできない人でそこに大きな知識の穴が開いてる状態です。
だからその人にとって不都合な出来事が起きる確率がその分上がっているのです。


道徳に絡むクオリアを持っているかいないかの判断はそれほど難しくありません。
常に癇癪を起こしている、感謝しない、忠告を一切聞き入れない、などです。


そういう人に会った時は離れることです。
見捨てるのではありません。諦めるのです。
すぐに諦めるのは道に沿っていませんが
テロリストが平和のクオリアを持っていないように
世の中には道徳のクオリアを持っていない人がいるのです。
話せば絶対に分かり合えるという思想は時に悲劇を招くことになります。


こう記すと薄情だとか悪と変わらないと思われるかもしれません。
ですが道というものは善悪で判断するものでは無いのです。
善と道は多くが重なっていますが同一ではありません。


善悪で判断するのではなく道に沿っているかいないかで判断しないと
物事の本質は見えてこないのです。


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