「一切は相対と在る」
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世の中の全てのものには対となるものが存在しています。
昼と夜、男性と女性、動物と植物、科学と宗教、物質と反物質。
徳光教の時代ではこの事を陰陽と表現していました。
陰は陰という字面のせいであまり良いイメージがありませんが
決して悪では無いことを知っておかなければなりません。
この相対となるものが存在するからこそ変化が生まれるのです。
自分という人間は生きていくうちに子供から大人へ、後輩から先輩へと
教わる立場から教える立場へと変わっていきます。
教える内容はその人の人生経験によって変わり
ほとんどは教える知識は少なく、教わる知識の方が多くなります。
教えを頂けるなら存分に頂き
教えられる知識があるなら惜しみなく伝えるのが
世に自分を置く良い方法なのです。
相手は人間に限りません。
自分と動物、自分と食材、自分とパソコンなど。
目の前にあるものは自分にとってなんなのか。
そのものから見た自分はなんなのか。
視点を変える事によって見えてくる現象は変わります。
私が神様を信じる理由は信じた方が色々都合が良いからです。
思考の幅を広げるために信じています。
神は絶対にいないとしてしまうと宗教に対する知識や感性が乏しくなります。
神様を信じているもう一つの理由はその方が創作を楽しめるようになるからです。
神や信仰が出てくる作品は信じてない時よりも深く楽しめるようになりました。
神はいないと思っていると楽しめる作品が減るなら信じた方が良いです。
そういう意味では父と同じ思考になりました。
父がオカルト関連の書籍を集めているのはそういう作品を楽しむためなのだと。
逆も同じで神は絶対にいるとしてしまうと
神を信じない人達の思考が理解できなくなります。
どちらの側に行き過ぎても思考が偏り柔軟な発想ができなくなります。
だから神様を信じていますし神を信じられないと声を上げられても平気でいられます。
神は絶対にいると考えている方はその信仰心を科学にも向けてください。
視野が広くなります。逆もまた同じです。