とくみつのひきこもり相談ブログ

7年3ヶ月ひきこもり無職の後、働き始めました。
ひきこもり無職の間、怖い経験をしました。
このブログは自分と同じ目に遭ってほしくないという思いで立ち上げました。

諸行無常は楽しい

視野を広げて考える時、宇宙の誕生を起点にすると気付けることがあります。
宇宙が誕生した時に私が生まれるのは決まっていたのか決まって無かったのか。
これは決まってないと考えるのが妥当です。
そもそも宇宙が誕生した瞬間にはこの宇宙を観測できる者も存在していません。
だから概念も存在していないのです。


決まって無いならなぜ私がこの宇宙に生まれることができたのか。
それは諸行無常だからです。
宇宙は常に変化を続けているから私も偶然生まれることができたのです。


そして確率を考えるとこの宇宙で起きる一切は
この宇宙が誕生する確率より高いということ。
私が生まれたことも宇宙が誕生する確率より高いのです。
何が起こったとしても宇宙の誕生に比べれば全てありえるのです。
だから自分の身に降りかかる一切に感情を振り回されるのは意味が無いのです。


原理を知ると諸行無常の良い面だけを見た方がストレスを溜めずに済みます。
諸行無常を創作に当てはめると常に新しい作品は生まれ続けることになります。
作品を楽しもうという心意気さえ持っていれば決して退屈することはありません。


この世は常に変化を続けているので
停滞していると相対的に見て流れに取り残されることになります。
停滞は後退と同義なのです。
常に最新の情報を見逃さないようにしたいです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

階段では手すりを使う

この記事はPL会員向けの記事です。


人類は階段の発明によって空間をより立体的に有効活用できるようになりました。
ですがそれは同時に転落事故の危険を増やすことでもありました。
私は道を知ってから階段で手すりを使うことは良い事だと気付きました。


階段を使うたびに転落する危険は常に付きまとっています。
それは自分の体が無意識のストレスに曝されていることになります。
手すりを使うと自分の体は安心します。


一度でも階段から転落したことが有るなら次から手すりを使うようになるはずです。
しかし転落した後では手遅れの場合があります。
重い障害を負ったり最悪は命を落とします。
命を落とした後では手すりを使うことはできません。
体力が有る時から手すりを使っていれば
未来の自分を転落事故から救うことになるのです。


手すりを使うことは自分だけでなく周囲の人の助けにもなります。
階段を下りている時に手すりを使っていれば
後ろの人が転落しても被害を抑えることができます。
私は転落事故に直接遭遇したことはありませんが以前こういうことがありました。


いつものように駅の階段で手すりを使って下りようとすると
私の後ろに親子連れが付きました。
小さなお子さんと母親で母親はお子さんに手すりを使うよう促しました。
私のすぐ後ろがそのお子さんで母親がその後ろに付きました。
これでそのお子さんが転落する危険は大幅に軽減されたことになります。
私はこれって消極善だなあと思いました。


こんなこともありました。
やはり手すりを使って下りていると前にお年寄りの方がいて
手すりを使ってゆっくり下りていました。
私は抜かさず少しだけ距離を取り、
お年寄りの方に合わせてゆっくり下りました。
これでそのお年寄りの方が後ろから押される危険が減りました。
これも消極善です。


体力が有る人が手すりを使っていれば転落事故が起きても
被害を最小限に食い止めることができるのです。
事故が起きなくても周囲の人達の無意識のストレスを軽減させているのです。


人の道を学び道を知るPL会員さんには階段では手すりを使っていただきたいです。
これもまた世界平和の為の一切なのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ パーフェクトリバティー教団へ
にほんブログ村

お詫びできる人間になる

この記事はPL会員向けの記事です。


PLに限らず宗教から離れる理由の一つに
お詫びしなければならないことが挙げられます。
救いを求めて来たのになぜ謝らなくてはいけないのかと。


人の成長に欠かせないのは感謝と感動、
認められたという自負の他に反省することが挙げられます。
この中で反省が最も自分を成長させるものであり
お詫びというものは反省の中で最も強い反省に当たります。


お詫びするのは自然の摂理に対して行うのが一番ですが
自分の体に対してお詫びすることが簡単で確実です。


体調を崩したときは不摂生が原因だったと自分の体に謝るのです。
包丁で指を切った時も集中していなかったと。
タンスの角に足の小指をぶつけた時もすぐにお詫びするのです。
自分の体にお詫びを続けていると体調を崩す回数が減っていきます。
包丁を扱う時もより集中できるようになります。


人はとかく自分の体を下に見がちです。
生まれた直後に自我はありません。
自我は後から生まれたものです。
後から生まれたものに自分の体は
司令塔として自分の体を扱うことを許可してくれているのです。


自分の体にお詫びと感謝を続けていると和解できるようなります。
私は自分の体と和解したとき過去の失敗の多くを思い出すことができました。
それが和解の証だと気付きました。


思い出した失敗の記憶には忘れていたはずの記憶が沢山ありました。
私は落ち込まずにその記憶と向き合いお詫びと感謝をしました。
感謝できたのはまた同じ失敗を繰り返さずに済むと思ったからです。


忘れていたはずの記憶を大量に思い出すことでまた気付かされました。
お天道様が見ているとはこういうことなのだと。
物心が付いてから今まで自分の行いを見てきたのは自分の体なのだと。


自分の体には嘘やごまかしは一切通用しません。
体は悪くなるべくして悪くなるのです。
PLのみしらせやみおしえは読んで字のごとく身知らせと身教えです。
自分の体が教えてくれる事は素直に聞くのが自然の摂理なのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ パーフェクトリバティー教団へ
にほんブログ村

創作と平和

私はひきこもっていた時バッドエンドの作品が苦手でした。
なぜ創作の世界にまで鬱を持ち込むのだろうかと。
しかし今ではバッドエンドの価値が分かるようになりました。
バッドエンドがあるからハッピーエンドの素晴らしさが光るのだと。
ハッピーエンドがあるからバッドエンドの救いの無さが際立つのだと。
この相対性がどちらも価値を高めあうものだと分かりました。


ハッピーエンドの作品は確かに素晴らしいですが
そればかりだと逆に鬱になる人もいらっしゃいます。
バッドエンドの作品を見てこれに比べて自分はまだマシだ、
とそう受け止める方も居てバッドエンドの作品にも
需要があることがようやく分かりました。


それから世界平和を達成するためには創作が重要になると気付きました。
戦争や犯罪が無くなっただけでは平和では無いのだと。
戦争や犯罪を世界から消すのでは無く
創作の世界に居場所を与えることが平和なのだと。


戦争の悲惨さや犯罪によって不幸が広がること、
それらを現実に持ち込んではいけないことを表現できれば
平和な時代でも平和の尊さを学べるようになります。


日本は創作大国です。
今ではアマチュアの作品もネットで多く見ることができます。
平和には創作が不可欠であることを考えると
世界平和に最も近い国は日本であることが分かります。


多くの作品に触れることは知識を得ること、感性を磨くことに加えて
平和を目指すことでもあるのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

制約と自由

この記事はPL会員向けの記事です。


人の道を知ると道に縛られるようになります。
制約が発生したら自由では無くなると思われる方はいらっしゃると思います。
しかし創作であっても表現してはならない事や
冗談であっても口にしてはいけない言葉を知っていた方が自由になるのです。


知らない人が知らずにその言葉を使った時、
自然の摂理を知っている自分の体が動揺するのです。
なぜそのような表現をするのかと。
そこで心と体の不一致が起きてしまうのです。
だから無意識のうちに表現に迷いが生まれるのです。


使ってはいけない言葉が分かっていれば表現に迷いが無くなります。
道を知ると制約に縛られますが、それは負の表現から解放されることでもあるのです。


怒り、焦り、憂い、悲しむことは全て負の自己表現です。
これらの感情を出している時はその感情に操られているようなもので自由意志が無い状態です。
止めるのは無理でも回数や時間を減らす努力をしていただきたいです。
これらの感情に振り回されなくなると己を虚しくするという状態が
どういうものか感覚的に分かるようになります。


虚しく、という言葉に良いイメージは抱けないと思いますが
己を虚しくした状態、我執や負の感情に捉われない心とは凪の心です。
凪の心を手に入れると怒ることの無意味さを理解でき
めったなことでは動揺しなくなり落ち着いていられます。
凪の状態は心を白紙の状態にすることでもあるので
視野が広がり情報を理解しやすくなり危険予知もできるようになります。


負の表現からの解放、落ち着いていられる、
情報が理解できる、危険予知ができる。
この状態の上で自己表現できるから自由なのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ パーフェクトリバティー教団へ
にほんブログ村