幻聴に殺されそうになった話-3「逃亡」
2月7日朝。一睡もできてないにも関わらず殺されそうになった恐怖で全く眠くなかった。とにかく逃げよう。でもどこに行けばいいのか。両親がいる広島しかない。
すぐに身支度を整えて出ようとしたが玄関の中で躊躇した。もしヤクザが潜んでいたらどうしよう。ヤクザがいるのは間違いない。110番通報した。
完全に冷静さを欠いていた。振り返ってみれば馬鹿なことをしたと思う。
現実では無職がいたずらで110番したようなものだったから。完全に税金の無駄だ。
通報するとオペレーターのお姉さんが出た。
「はい警察です。何がありました?」
「虐待されている子供がいて……」
「虐待ですか」
「それで命を狙われていて……」
「子供がですか?」
「いえ私が」
「あなたが? どうしてですか?」
「実はその虐待している親がヤクザっぽくて」
「ヤクザ?」
かなりグダグダなやり取りが続いた。
「とにかく信じてください。助けてください」
「はい……分かりました。管轄の者を向かわせます」
これいたずら電話だと思われてしまったか? もし来なかったらどうしよう。
警察官が来るまでの15分間がとても長く感じた。
「○○警察署の者です。お話を伺いに来ました」
警察官の声を聞いた時、心底安堵した。ひとまず命がつながった。パトカーの中に案内され二人の警察官に事情を説明した。
「では実際に虐待されている子を見たというわけでは無いのですね?」
「はい。声だけです」
「グレーの状態だと警察官は踏み込めないということを理解してくださいね。
これからマンションの他の住人に聞き込みをします。あなたはどうしますか?」
「しばらく帰りません」
「そうした方がいいでしょうね。我々もあなたに24時間付くわけにもいきませんし」
マンションに警察官が入っていくのを見届け、駅に向かった。
マンションから離れれば子供の声が聞こえなくなると思ったが考えが甘かった。
(ニートが逃げた! ニートはここにいるよ!)
子供の思念はどんどん強くなっているようだ。
新幹線に乗る前に教会の先生に一言伝えなくてはと思った。両親がある宗教をやっている関係で自分もその宗教に所属していたからだ。
ちなみに僕はそれまで神様を信じていなかった。
教会に向かう途中に周りから声が聞こえてきた。
「ニートがいる」
「え? ニート?」
「ニートが逃げてるんだって」
驚いて周囲を見渡した。周りにいる人達がみんな口々にニートと言い始めたからだ。
子供の思念が他の人達に広がっている!?
子供はというとニートが逃げてる、とひたすら連呼していた。
先生に会って事情を説明した。説明している間も子供はニートは今教会だよ、と連呼していた。先生は突拍子も無い僕の話を真面目に聞いてくれた。
「自分だけ助かろうと思ってはいけません。
その子供と家族の幸せも一緒に祈ってあげなさい」
先生にそう解説されすぐに広島に行きなさいと言ってくれた。
あいさつもそこそこに新横浜駅に向かった。
「ニートが逃げてる」
駅に向かっている間も子供の連呼と周囲の人達への伝播は止まらなかった。
新横浜駅に着くと睡眠不足と空腹で意識が朦朧としてきた。
新幹線の中で食事する気は無かったので飲食店で軽い食事を済ませた。
食事をしている間も新幹線に乗った後も声が聞こえ続けた。
参ったなあ。
「参ったって」
ん?
「聞こえてる」
と言ってみた。
「聞こえる~。なにこれ不思議~」
僕の声も周囲に伝わるようになっていた。これは使えるんじゃないか。
「メゾンド○○で虐待! メゾンド○○で虐待!」
「虐待だって」
「聞こえる聞こえる」
「メゾンド○○で虐待?」
どんどん聞こえる人が増えていく。
(おかしいだろ! ありえねーよ!)
父親が狼狽している。
「自首しろ! 聞こえる人が増えていくぞ」
(そんなのできるわけねーだろ! やめてくれよ!)
いつの間にか父親とも会話できるようになっていた。
「メゾンド○○で虐待! 近くにいる人は通報してください!」
(やめろ! やめてくれ!)
そんなやり取りを1時間ほどやったころ母親の声が聞こえてきた。
(ニート聞こえる? もうやめて!)
あなた達が助かるまで続けるよ。
(大丈夫! もう大丈夫なの!)
え? もしかして。
(助かったぁ!)
ほんとに? そういえば子供の声が全然聞こえない。
(ありえねーよ! 今警察だよ!)
父親が叫んだ。本当に助かったのか。
母親は嬉しそうだ。
(助けてくれてありがとう)
いや遅くなってごめん。
(ニートいい人)
ニートは余計だ。
子供の声も父親と母親の声も聞こえなくなった。
もう幻聴は聞こえない。広島の両親に会えたら解決したことを報告しよう。
そう思いながら心が穏やかになったのだった。
つづく