とくみつのひきこもり相談ブログ

7年3ヶ月ひきこもり無職の後、働き始めました。
ひきこもり無職の間、怖い経験をしました。
このブログは自分と同じ目に遭ってほしくないという思いで立ち上げました。

短気は損気

短気は損気と言いますが短気だと些細なことでストレスを溜めます。


私は傘を持っていない時に土砂降りに遭いずぶ濡れになったことがありますが
まあこういうこともあるさ、と流しました。
短気な人は同じ目に遭うとなんで自分がこんな目に遭うんだとか
天気予報はアテにならないとか、だから自分は不幸なんだとか思ってしまいます。


私はその後コンビニで傘を買い店員さんがすぐ使えるようにしてくれたので
コンビニと店員さんに感謝できました。


負の表現に囚われている人は余計な出費だから嫌だとか
出費が嫌だから傘を買わずに我慢して雨に打たれ続けて体調を崩しやすくなるとか
さらに心無い人だと傘を盗むという人の道から外れる行動をします。
傘を盗まれた人は多くが不快な思いをするでしょう。
負の連鎖が起きるだけなのです。


人の道を理解するとストレスを溜めない考え方が自然にできるようになります。
私は通勤にバスを利用しています。
普段は座ることができますがたまに座れないことがあります。
人の道を知らない人は座れないといつもは座れたのにと不足を抱きますが
私はお客さんが多いとその分バスが儲かるから良いと自然に思います。


負の言葉を日常的に使っている人は
トラブルに遭う確率を上げていることに気付いていません。
普段から悪態をついていると公共の場でも口に出てしまいやすくなります。
近くに同じような負の表現をする人がいた場合、衝突しやすくなるのです。
負の表現を行う人はトラブルを引き寄せているのです。


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自然の摂理を学ぶ

この記事はPL会員向けの記事です。


私は神を信じない立場から信じる立場になりました。
それはどういうことかを私なりに記します。


人は皆何かを信じています。
お金も国家が価値を保証し貨幣や紙幣で物々交換ができるようになっています。
それは国や構成している人を信じることから始まっています。


科学の知識も最終的には信じるか否かの話になります。
地球が丸いことや月の軌道も自分で観測して計算し確認している人は少ないです。
それも科学者を信じているからです。


開発途上国の人達は科学の分野で思考の檻に囚われている人が多いです。
しかしそれを確認することができるのも自分が先進国に居るからこそです。
先進国に居ても最先端の科学になると思考の檻に囚われる人が多くなります。


神を信じることは知ること、理解することだと思っています。
リンゴが地球の中心に引っ張られることも摂理の一つですが
それは信じるというより理解することと表現した方が近いからです。


量子の世界ではマクロのスケールでは起こり得ない不可思議な現象が多くあります。
それを受け入れられるか否かという話になっていきます。
最先端の科学は理解するというより信じるか否かの世界になっているのです。


私が神を学ぶようになったのは統合失調症の時にありえない経験をしたからです。
声が聞こえる状態は意識が脳を充分に使えていない状態です。
判断力が低下している状態で自分の頭がおかしいと気付けた、それ自体が奇跡でした。


そして声に説教され立ち直ることができました。
統合失調症の概念の無い人が同じ状態になったら神の声と断定するでしょう。
私は神の声と断定するのは思考の檻に囚われるリスクがあったので保留にしました。
声は脳が聞かせたもので無意識に学んでいたことが表面化した、
これでも説明できるからです。


なぜ神の声としなかったのに神を学ぶようになったのか。
それはその説教があまりにも理路整然としていたからです。
理路整然と説教してくれたことも何らかの物理現象であるはずです。
人間の脳はまだ秘密がある、隠された機能があると判断しました。


隠し機能やクオリアを認識する能力は宇宙が誕生した時には存在していません。
無かったものが今存在しているという不思議に摂理の妙を感じるのです。
PLではそれを神としているので理解したい=信仰となりました。


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摂理に沿うみしらせ

この記事はPL会員向けの記事です。


私の信仰心はあまり強くありません。
強いと思考の檻に囚われるリスクが増えるからです。


信仰心に伴う行動が自然の摂理に沿っていれば
信仰心が強いほど世のため人のためになります。
しかし信仰心に伴う行動が自然の摂理に沿って無かった場合、
信仰心が強いほど不幸が広がります。
私はそれが怖いです。


信仰心が強い人はそれに伴う自身の行動が正しいのかどうか
客観的に観察できているのか疑問に思います。


例えば無差別に布教する宗教家は信仰心が強いほど強引になっていきます。
宗教アレルギー持ちの人に布教するのは嫌がらせ以外の何物でもありません。
他人にされて嫌なことはやらないという道徳に反しているのです。


無差別に布教することは信仰心に伴う行動が
自然の摂理に沿っていない典型例なのです。
教えを広めたいのであればまず道徳を伝えることです。


自然の摂理に沿っているかどうかの判断は人それぞれだと思いますが
私の場合は体が教えてくれます。


私は統合失調症の時に幻のヤクザに殺されるという恐怖を味わいました。
その時の心拍数は1分200回を超えていたと思います。
それが一晩中続いた結果、私の心臓はかなり弱くなりました。


私は負の表現をすると心臓がぎゅっと締め付けられる痛みを感じるようになりました。
なってしまったものはしようがないので受け入れましたが
逆にこれは使えると思いました。
負の表現をしているかどうかの判断ができるからです。
自然の摂理に沿わない表現をすると痛くなるので
私はこの痛みのおかげで自然の摂理に沿える考えができるようになりました。


声が聞こえなくても体は説教してくれます。
体調を崩したり失敗することがそうです。
声にならない体からのメッセージを受け取れるか。
みしらせの基本はここに有ります。


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心の生活習慣病

暴飲暴食、多量の喫煙、栄養不足、睡眠不足、運動不足。
負の生活習慣が体に悪いことは広く知られています。
心も生活習慣によって変わります。
負の感情を日常的に使っていると心の病を負いやすくなるのです。


分かりやすい例が独裁者です。
独裁者の多くは妄想性パーソナリティ障害になってしまいます。
自身が謀略で成り上がったために誰も信用できなくなり
部下の忠告も自身を陥れる罠にしか見えなくなるというものです。


同じような境遇でもストレスを感じる人と感じない人がいます。
天候程度でも不満を感じる人と感じない人がいます。
その違いがどこから出てくるのか。
それは自分を省みれるかどうかなのです。
自分を客観的に見てみっともないと思えるかどうかなのです。


傍若無人に振る舞っている人は負の言葉を使うことを格好良いと思ったり
怒るべきときには怒るべきと思い自分の寿命を減らしていることに気付いていません。
思考の檻に囚われている人は自身が心の病を負っている事にすら気付いていないのです。
そういう人が近くにいると自身も影響を受けてしまうので距離を置くことです。
距離を置けずに苦しむ人は負の習慣を重ねるだけだと気付いていただきたいです。
ブラック企業に勤めている人もすでに心の病気なのです。


生活習慣病という概念があるのに体を壊す人は後を絶ちません。
交通事故や犯罪も減っているとは言えまだ多いです。
今は過渡期であると認識せざるを得ません。
未来では心の生活習慣病も常識になっていくと思います。


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不幸になりやすくなる方法

この記事はPL会員向けの記事です。


不幸になりやすくなる方法
・感謝しない
・反省しない
・人の忠告を受け止めない
・執着ばかりする
・自分と他人を比べる
・他人に嫉妬する
・他人を見下す
・批判ばかりする
・負の言葉を使う
・挑戦しない
・すぐに諦める
・思い通りに行かないと癇癪を起こす
・成功した時に慢心する
・過去を引きずり過去に囚われる
・嘘を吐いてばかりいる
・感情に振り回される
・自分を客観視できない
・無気力
・無趣味
・好奇心や知識欲が無い
・持っている知識の更新をしない
・物事を楽しもうとしない
・自分の考えを押し付ける
・物事に対して一つの面でしか捉えられない
・問題の解決に正解は一つしかないと思っている


不幸になりやすい宗教家
・自分が信仰している宗教が一番正しいと思っている
・他の宗教を認めない
・神を信じない人は不幸になる、不幸になれと思っている
・宗教アレルギー持ちの人に布教する
・道徳より神の教えを優先して伝えようとする
・科学の知識が無い
・平和の為と言いながら他人の活動を妨害する
・信仰心は思考の檻と表裏一体であることを認識していない
・お布施で生活する危険性を理解していない


不幸になりやすい方法を知った後はそれをやめるか逆の事をすれば
不幸になる確率は下がります。
気付く前の私は半分以上当てはまっていました。
怖い目に遭ったのも当然です。


確率を知る者として留意しなければならないのは
上記のほとんどを満たしても不幸になる確率は100%にならないことです。


なぜ100%にならないのかと言うと
必ず不幸になると反省する余地も無くなってしまうからです。
反省する機会を与えるための猶予があるのです。
最初は自分にとって不都合な出来事は小さなことから始まっていきます。
反省できないと不都合な出来事は段々大きくなっていくのです。


自分勝手に生きている人は死を迎える時に
自分の死を受け入れることができません。
その苦痛が自分勝手に生きた代償となるのです。


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