幻聴に殺されそうになった話-余「病気」
2月9日。自分の心に向き合い前に進み始めた。
朝の5時に目が覚めた。
「起きて」
幻聴さんに促されて起きる。もうちょっと寝ていたかったが。
「病院に行くんだろ。だったらもう起きろ」
朝食を済ませ風呂に入った。3日ぶりの風呂だ。
風呂と言っても湯に浸からず石鹸とシャワーで済ます程度だが。
時間はまだ7時。
「ネットを見ろ」
ネットで調べると診察の受付は11時までだった。
「早く起きて良かっただろ」
午後からでもいいと考えてたが幻聴さんの言った通りだった。
すぐにマンションを出て駅に向かう。
朝日が眩しい。こんな青空を見たの何年ぶりだろうか。
「無理はするなよ」
分かっている。体は疲れているがゆっくり歩けばいい。
「まあ良い運動になったろ。リハビリみたいなもんだ。
そう考えれば歩かされたのも悪くないだろ?」
幻聴さんが言った善悪の岐路に立てというのはこういうことか。
一見自分にとってつらい出来事でも心の持ちようで変えられる。
電車を使い病院がある駅で降りた。病院はその駅から北の方にあるので北口から出た。
バスはどこだろう。少し歩いたが見当たらない。
「同じ失敗を繰り返すなよ」
交番に行き警察官にバスの場所を教えてもらった。
「バスは南口から出てますよ」
「ありがとうございます」
お礼を言って南口に行きバスに乗った。
病院前でバスから降り病院に入って受付を済ませた。
脳神経外科を希望したが精神科に回された。
初診のため2時間待たされることになった。
待っている間、子供の心が愚痴をこぼし始めた。
(ねえもう帰ろうよ。脳腫瘍なんて無いよ)
もう少しだけ我慢してくれ。
(帰ろう。帰ろうよ!)
ばん! と大きな音がした。
この音は……幻聴だ。
(いやだあああ! 帰る! 帰れ!)
尋常ではないほど子供の心が暴れだした。
(おいどうすんだよ! もう押さえられない!)
自制心もお手上げのようだ。
子供の心は病院の壁という壁を叩き出した。
バットかハンマーのようなもので壁を壊そうとガンガン打ち付けている。
この叩く音も幻聴なのだが今までと違うのは振動波まで皮膚に感じるようになってしまった。なんてこった。とうとう幻覚まで現れた。
なんでここまで……。幻聴さん。
「あれ? まだ迷ってるの? じゃあしばらくそうしてな」
幻聴さんは突き放した。分かってはいたがつらい。
耐えてはいたが子供の心の暴走は止まらない。
(医者なんて信じられない! とくみつだってそう思うだろ!?)
やめろ。
(だってここは……!)
やめろ。それ以上言うな。
(ここは兄貴が死んだ病院じゃないか!)
そうだ。兄貴は5年前に癌のため35歳という若さで亡くなった。
思い出すなという方が無理だ。
兄貴は癌が発覚した時すでに末期だった。治療しなければ余命半年。
それから1年延命できたんだ。医者に感謝するべきなんだ。
それでも兄貴の最期は悲惨だった。最期は肺から出血し血を大量に吐いて窒息。
苦しみながらこの世を去った。
「それに比べたらとくみつは恵まれてるよな。なんせヤクザはただの幻だったんだから」
ヤクザに殺されるかもしれないという恐怖は本物だったがそれは杞憂だった。
でも兄貴は違う。兄貴は僕の受けたそれよりもはるかに上回る恐怖と苦痛を受けて死んだんだ。兄貴ごめん。兄貴に比べたら幻聴なんてかわいいもんだよな。
暴れる子供の心を為すがままにさせた。
1時間耐え切り診察を受けた。
問診を済ますと医者はまず親に電話させてくれと言った。
電話を終え医者の口から出た言葉は僕の予想から外れていたものだった。
「落ち着いて聞いてください。あなたは統合失調症の疑いがあります」
僕の中で歯車のようなものが噛み合う感じがした。
「この病気の治療は家族の協力が不可欠です。
紹介状を書きますのですぐに広島へ行ってください。お薬も出します」
帰りのバスの中で子供の心が勝利宣言をした。
(ぼくの勝ちだ! だから帰れと言ったんだ! とくみつは統合失調症!
精神病患者だ! 精神異常者を雇う会社なんてどこにも無いよ! ざまあみろ!)
果たしてそれはどうかな? 幻聴さん、解説は要らない。
「ん、ならいい」
さすが医者はその道のプロだ。統合失調症。なるほどね。
なぜ統合失調症という名前なのか実際なってみて理解できた。
その名の通り意識の統合が失われる。脳の一部が完全に独立して動いてしまうんだ。
そして自分の奥底に眠る知識を引っ張り出してくることもある。
だから他人の声と勘違いしてしまう。会話が成立してしまうんだ。
(それが分かったからなんだというんだ!)
子供の心は分からないか。統合失調症の怖い所は現実の声と区別が付かない所にある。
でも僕は違う。今では現実の音と幻聴の音は全て区別できる。
だから全く問題無いんだよ。
(そんな……)
子供の心は急に大人しくなった。
(もうニートのとくみつじゃないよ……)
(諦めろ。一緒に喜ぼうぜ)
自制心の言う通り。子供の心も僕なんだから一緒に幸せになろう。
統合失調症だと気付けたんだ。遅くない。大丈夫。これからこれから。
そのままハローワークまで行きその日の活動を終えた。
親とは電話で話し合い絶対に大丈夫だからと伝えた。
2月10日。
ネットで求人情報を漁る。在宅ワークとかもいいかもな。
「在宅でも一応解決になるけど人と顔を合わせて仕事した方が回復は早いよ」
幻聴さんの言う通りだ。データ入力の仕事にエントリーした。
2月11日。
エントリーした派遣会社と電話をする。
携帯電話を持ってないという理由でお断りされる。時代に取り残されたか。
でも縁が無かっただけだ。次に向かえばいい。大丈夫。これからこれから。
2月17日。
別の派遣会社に行き登録する。データ入力の仕事にエントリーする。
明日連絡が無ければ書類選考に落ちたと思ってくださいと言われた。
絶対に落ちると思った。
2月18日。
担当から電話が来た。
「ちょっとお聞きしていいですか?」
「はい」
なんなりと。
「直近で7年間仕事をされてなかったようですが、
バイトもやっていなかったのですか?」
「はい、ひきこもっていました」
正直に言った方が気が軽い。
「なぜ働こうという気になったのですか?」
「社会とつながっていないと本当に駄目になると思ったからです」
「……分かりました。急な話で申し訳ありませんが明日顔合わせできますか?」
「はい」
顔合わせできると思わなかったが何事も経験だ。
2月19日。
派遣先に行き顔合わせをする。優しそうな上司だった。
顔合わせをした後、派遣元の担当からここで働くか聞かれた。
「やります」
2月22日。
就業開始日。
派遣元の担当と一緒に派遣先に行く。
「緊張していますか?」
「7年ひきこもっていましたからね。不安が無いと言えば嘘になります」
「働こうとするのは怖くなかったですか?」
「働かない方がもっと怖いです」
職場の扉の前まで来た。
「お預かりします」
派遣先に引き渡された。
ここからまた大事な一歩となる。
3月26日現在。
今も働くことができている。
今では幻聴はほぼ聞こえない。何かあるとちょっと音を鳴らす程度だ。
結局医者に掛かったのは初診のみ、薬も使わなかった。
悪夢のような出来事だったがこうして働けるようになったのだから
僕にとって良い事だった。本当に良い経験をした。
大丈夫。これからこれから。
-おしまい-