相対の岐路に立つ
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「常に善悪の岐路に立つ」に折り畳まれている教えです。
科学と宗教の岐路に立つ、
資本家と労働者の岐路に立つ、
資本主義と共産主義の岐路に立つ、
戦争と平和の岐路に立つ。
このように相対の岐路に立つと視野を広げることができます。
では無数にある相対の中からなぜ原処世訓が
「善悪の岐路に立つ」となっているのでしょうか。
それは善の概念と悪の概念はこの世で最も対極にあるものだからです。
善悪の岐路に立つことができれば
この世の一切の相対するものを客観的に見ることができるのです。
善悪の岐路に立ち、相対の岐路に立つ。
この教えは源流である徳光教の教えを加えると理解しやすくなります。
「苦痛は善悪の境と知れ」
苦痛というものは普段は味わいたくないものですが、
無ければ無いで困ることになります。
痛みを感じなければすぐに骨折したり、
内臓が壊れても死ぬまで気付けないからです。
痛みを感じることは本来ありがたいことなのです。
生存確率を上げるために進化の過程で痛覚を獲得したのです。
体が苦痛を味わわせてくれるのはそれ以上無理をさせないためです。
無理をしない程度にできる範囲で物事を成すことが大切なのです。
無理だと体が教えてくれるのなら休んで良いのです。
相対の岐路に立つと視野を広げることができます。
感性を磨き視野を広げるとあらゆる事から学べるようになります。
処世訓に折り畳まれている教えの一つ
「一切に学ぶ」ことができるようになります。